■修験道の人たちが場所を発見し住み着いたことと、窯業の発展はどのような関係にあるのか?
修験者は住んでいたのではなく、深仙宿に1週間滞在していただけです。
行者堂、護摩壇、閼伽井は行者杉に囲まれた深仙宿に一つずつあります。
■小石原宿の発展:
英彦山参りの人々(修験者とは別)が宿泊したり、大名も通過し宿泊するほどの宿場だった。
五穀豊穣を祈る祭りが旧暦2/14・15「松会」(英彦山市)が英彦山で行われていたときには、多くの人が小石原宿に訪れたため、近隣の農家も人を泊めていた。
■窯元の発展:
小石原焼は主に普段使いの器が作られており、英彦山参りの人々が訪れる小石原宿の来訪者をもてなすためのとっくりや、深仙宿での祭器に使われていた。小石原は福岡でも積雪する寒い土地のため、小石原宿では必ず長時間保温できる小石原焼のとっくりに入れた酒でもてなしていた。
1960〜70年代前半にかけて起こった民芸ブームにより、9軒の窯元が約50軒に増加した。それまで、小石原宿や近隣のまちに車力で焼物を売りにいっていたが、店頭販売を行うようになった。
これまでの話をまとめました。
■閼伽井と行者杉と英彦山と窯場の関係の移り変わり
もてなし・表の場の小石原宿、隠れた・裏の場の皿山地区
・英彦山という信仰の強い山があり、小石原から初めて英彦山の全景を拝むことができたたため、聖域的な場として深仙宿が置かれた。
・深仙宿を神聖化するために献木してできた行者杉があったことで、清水が涌き、神聖な雰囲気や窯業を営める環境を作り、技術を守ることができた。
・窯業で保温性の高い焼物を作れたため、来訪者に特別なもてなしができた。
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小石原宿の衰退、制作と商売をする場に変化した皿山地区
・修験道の衰退と民芸ブームで小石原焼が注目されたことで、皿山にも外部の人が訪れるようになった。
・英彦山に鉄道や車で行けるようになったため、小石原宿の必要性がなくなった。
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地霊を理解する場がない小石原
小石原は土地の使われ方が変化し、かつての閼伽井と行者杉と英彦山と窯場の関係が薄れているで、地霊を感じづらくなっている。
道の駅や小石原焼協同展示場で窯元の情報を発信しようとしているが、かつての小石原宿のように、来訪者と住民、住民同士が交流して人と人との関係をつくりながら、情報交換をしたり、もてなしをしていないので、まちの魅力を発信できていない。
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admin (土曜日, 31 1月 2015 01:29)
やっとまとまってきた。
*深仙宿・小石原・小石原宿・皿山地区は、各々何処を示すのか?
*ここに書いてあることを、一枚の画ではなく、歴史的経緯として示す。
*ざっくりとしたゾーニングで示してみる。但し、必要な要素も示すこと。
*その時期の地形・交通なども重要。
*小石原は、どのように土地の使われ方が変化したのか?
*閼伽井と行者杉と英彦山と窯場の関係はどのように薄れているのか?
*来訪者と住民、住民同士が交流していたことは、地霊と関係あるのか?
*英彦山に鉄道や車で行けるようになったため、小石原宿の必要性がなくなったのなら、もはや英彦山はこの地区に関係がないのか?
*なぜここで窯業が始まったのか?英彦山参りと関係があるのか?
*今、役場が建っている場所は、地霊的にあまり意味がない場所では?だとすると、そこに何を作ってもダメでは?
*英彦山→小石原宿→深山宿→皿山地区か?
*英彦山→深山宿→小石原宿→皿山地区か?
admin (土曜日, 31 1月 2015 01:30)
*デザインの話ではなくて、地霊を感じさせることで、IターンやJターンの人を増やすことが目的なんだろう?
*レストランやじじばばカラオケルーム作ったって、何も変わらない。
*何か新しいプログラムを持ってきて、そこに地霊をぶつける。
*そのために色々視察にいったはず。若い世代を引き入れて、そのまま残ってもらえるようなプログラム。それに英彦山や窯業や行者杉に囲まれた深仙宿や小石原宿をかぶせていく。
*行者杉に囲まれたアカイや行者堂を作るか。