地霊を体感する建築-福岡東峰村のシビックプライドを育む故郷プレイス-/ITB16

*どこが皿山地区で、どのように木々で守られているのか?

・皿山の窯元に繋がるパスを行者杉によって神聖的な雰囲気を醸し出し、人が入ってきては行けないようなイメージを与えることで存在を隠している。

・窯元のある道の奥に窯元が集めて、道の入り口には木が迫って立つことで、道の入り口からすぐに窯元が見えないようにしている。


*どこが行者杉のエリアで、どこが神聖な雰囲気を醸し出しているエリアか?

行者杉:濃い緑の部分

神聖な雰囲気を醸し出しているエリア:紫の部分


*アカイと行者杉と英彦山と窯場の位置と範囲と関係は?

*アカイと行者杉と英彦山と窯場の歴史的背景はどう示せるのか?

閼伽井や行者杉、窯元のある皿山と英彦山の位置関係と小石原からの峰入りルート

行者杉と窯元の関係:

窯元にとっての行者杉の役割・・・

生活水や川の流れを利用した唐臼のための水源涵養林、窯業の生活環境や技術を守る役割

そのため、かつては皿山の窯元の人々が行者杉を自分たちの生活や技術を守ってくれる大切な存在として管理していた。

修験者たちは、行者杉を管理していた皿山の人々や役人に挨拶をしてから深仙宿に訪れていたことから、

皿山の人々の修験者たちには強い信頼関係があった。

行者杉の枯れて落ちた枝ですら、護摩焚きに使うために拾っていいか許可を得てから使用していた。

 

このことから、修験者たちの深仙宿へ入るときのルートが青の点線だったといえる。(皿山の地図)

 

*かつての関係は、現代において、どういう風に失われているのか?

・修験道の衰退により、小石原や皿山が修験道にとって重要な地であることの認知度が低くなり、自分たちの土地への誇りが薄れている。

・行者杉が国有林となり、皿山の人々が管理する必要がなくなったことで、行者杉に対する感謝の気持ちが薄れている。

・修験者たちのような外部からくる人々との関係が薄くなった。

 

英彦山はどこからよく見えるのか? かつて行者たちはどこに住んでいて、それはなぜか?

英彦山が望める緑線の部分に住んでいたのが行者かは分からないのですが、S38年の航空写真では、小石原宿や皿山の窯元以外の居住エリアが英彦山が望める部分だったことが分かります。

アカイと行者杉と英彦山と窯場の関係が地霊だとすれば、それを現代に置き換えるとどういう提案になるのか?

行者杉で生まれた、修験者(外部から訪れる人)と皿山の人々の信頼関係があったことや、小石原宿という外部の人をもてなす場があったことから、小石原は山奥の地であるにもかかわらず、外部の人との関わりがあった地であるといえる。


行者杉のように住民に対してや外部の人に対して役割があり、外部の人との関わる仕組みとなるもが小石原には必要だと思うので、閉鎖的な役場を開けた公共の場していく。

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コメント: 2
  • #1

    admin (水曜日, 28 1月 2015 11:25)

    *アカイと行者杉と英彦山と窯場の歴史的背景はどう示せるのか?
    経緯を示す。
    *英彦山はどこからよく見えるのか? かつて行者たちはどこに住んでいて、それはなぜか?ただ山が見えるのではなく、よく見える場所。
    *行者杉のようなものが必要?なのに、役場をオープンにする?おかしいのでは?
    *アカイと行者杉と英彦山と窯場の関係が地霊だとすれば、それを現代に置き換えるとどういう提案になるのか?「関係」を考える。
    *アカイと行者堂と護摩壇はどこに何箇所あるのか?図面で示す。

    *修験道の人たちが場所を発見し住み着いたことと、窯業の発展はどのような関係にあるのか?宿場町の発展は?それらは別々の要因なのか?それとも関係しているのか?
    *そういった歴史的経緯を図面で明らかにし、それらと現代の町の構造を比べる。

  • #2

    admin (土曜日, 31 1月 2015 01:26)

    ゴールは、それらを建築のデザインに組み込むことである。コンペのコンセプトのようなもの。素材やプログラムだけではコンセプトにならないだろう?